22. 王爺公廟

  1. 地点:埔県仏曇鎮岸頭村
  2. 創廟年代:南宋末以前。村の大姓である楊姓がここへ来たとき(南宋末、元代)には既に廟があった。廟は、それ以前から住んでいた李姓が建てたものであると伝えられている。
    よって、13世紀頃創建か。乾隆年間(1735‐1796)に改築(現存するのはこの時のもの)。
    楊姓は、宋代最後の皇帝の妻の父方親族。皇后の父は、都から落ちてきてここで病気になって動けなくなったので、一族がこの辺りに定住した。現在でも、大きな祠堂が残っている。
    当時、趙、黄、楊の三つの姓の人々がやってきたが、趙、黄姓は、明代に湖西へ再移住していった。
  3. 主祀神明(生日):王爺公(1月12日)。壁面に描かれた画像。五尊。但し姓名不明。頭は李王。
  4. 配祀神明及び同祀神明:註生娘娘(五尊、画像)、中軍府(画像)、伽藍王、朱太、朱太媽、広平聖王、玄天上帝。朱太、朱太媽の存在から、朱府王爺が五尊の中にいるのではないか、とインフォーマントは推測している。
  5. 祭祀圏:岸頭村。但し、元来は仏曇鎮の王爺は、この廟に五尊の神像があったが、後に五つの廟に一尊ずつ分散した。
    現在では、鎮全体の人口は五万人程だが、そのうち五つの村で二、三万人が信者。現在二つの廟が残っているが、残りの三つは廟が廃絶し、神像は個人の家に安置されている。
    仏曇鎮志編写組(1993)によれば、五つの村の名前と神の名前は以下の通り。岸頭:王爺公、半頂尾:大王爺、東門兜:三王爺、崎街:四王爺、石:二王爺。
    このうち、二王爺と四王爺の廟がない。即ち、同書によれば、廃絶したのは二宇のみ。五人の王爺の頭は「李王」だが、岸頭の王爺と半頂尾の王爺のどちらがそれかはわからない。
    李王は、49年以前は紙糊製で、他が木彫製。しかし、現在は紙製の像は造らない。この他、下坑、先鋒の二つの村は、神像も廟もないが、祭りには参加。
  6. 王爺の起源:不詳。唐代に造られた「浮南橋」に王爺が流れてきたので、拾い上げて新たに神像を造った。王爺は、出巡などには参加しない。替わりに広平聖王が出る。
    広平聖王は、李子英という唐代の人。6月25日が生日。「晒日広平王、吃肉王爺公」といって、旱魃や瘟疫が有ったとき出巡するのは広平聖王。王爺は廟の中で肉を食べている(安楽な暮らしをしている、の意)。
    李王は、こわい神。王爺の油(廟の中の落花生油)を盗もうとしたりすれば、厳しく叱られる。そういうことをする人は、恐いもの知らずであるという事の喩えとしてよく使われる。
  7. 送王船儀礼:49年以前は、十二年に一度行った。船は焼く。この時、道士を呼んで、李王を作り替えた。道士に開光点眼をしてもらった。他の四尊も一度目隠しして新たに開光した。開光してから十二日間は、「頭家(祭の責任者達)」のみが神を拝めた。
    その後一般に公開。しかし、父母が死んだばかりの人や出産後一ヶ月未満の女性は不浄なので、四カ月間拝めず。
    十二年に一度僧侶を招いて「羅天大」を行った。この行事は、普度に似ている。接王、送王は、浮南橋の袂(廟を出て左手の道を進んだ先)にある大きな榕樹のもとでやった。
    頭家は、信者の中から正月一日(又は新年最初)に子供が生まれた家の長を選び、次に順番に子供が生まれた家のなかから早い順に十数戸の家の長が子頭家になる。
    頭家になると、お金集め(村によっては「丁口銭」を取っていた)、連絡、演劇の手配、廟の維持管理・修理などを責任持った。演劇は「木偶戯」。仏曇は福建の木偶戯の郷と呼ばれていて、有名な使い手が出ている。
  8. 巡境(有無及び範囲):毎年正月十二日に行う(現在も)。五つの村が全て参加する。王爺だけでなく、この範囲内の他の廟の神も参加。信徒は、行列が通るときには、香案を並べて供物を出して參拜。
    御輿の「過火」あり。過火で燃やした草を家に持ち帰ると家が繁栄すると言われている。爆竹も盛大にならすので、一日に二、三万個の爆竹が消費される。
    出巡の日程は以下の通り。
  9. 分霊:進香に来る人はいない。
  10. 管理組織:かつては、頭家がいた。

廟の外観 19961228

王爺画像 19961228

左から朱太媽・朱太爺・伽藍王 19961228

左から広平聖王・玄天上帝 19961228

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