28. 鐘霊殿

  1. 地点:晋江市安海鎮可慕村
  2. 創廟年代:元末明初(14世紀中葉。当時の名前は「震龍宮」) (曽華衡 1994)。
  3. 主祀神明(生日):康、玉、李、周王爺(まとめて、8月13日)。
  4. 配祀神明及び同祀神明:四王府夫人、三王府、閻羅王、兵馬、船公、七王府、王府夫人、保生大帝、文武判官。
  5. 祭祀圏:「当境仏」は保生大帝。王爺の管轄域は村の範囲を超えている。
  6. 王爺の起源:唐代 360人の進士のうちの4人。康席(黄河流域の人)、玉(本姓は温、温州人)、李基(唐室の子孫)、周申(福建人)。有る者は安史の乱で犠牲になり、有る者は民に仁政を行ったので、死後祭られた。
    この村で祭られることになったのは、元至正年間(1341‐1368)温州の温九郎が「香火」を持ってきたから。泉州で商売をしていたが、外出するときは必ず、四王爺の香火を携帯していた。
    ある時、可慕村の付近を馬で通ったとき、樟樹の下で休憩した。立ち去るとき、香火を持っていかなかったので、以後四王爺の霊がこの木に宿り、夜になると木が光るようになった。このため、村人はこれを神と信じるようになった。
    元末に瘟疫が流行ったときに、村民が参拝して薬草の処方を請願したところ、効き目があったので廟を建てることになった。
    明洪武三年(1370)に廟を建て、この樟樹を切り倒して四王の像を作った。嘉靖年間(1521‐1566)に倭寇によって、破壊された。
    万暦時(1572‐1620)には、職人がこの四王の像を盗んだので、南安渓尾、安海の後蔡、許坑などに分炉(分霊)した。宣統年間に修築しこの時許坑からようやく神像を取り戻した(曽 1994)。
    しかし、廟にいた女性(80歳代)が村の長老から聞いたという話は曽(1994)の記述とは異なっている。ある時四人のサツマイモ粉を作る男達が神憑りになったので、神意を訊ねたところ、「后蔡」から来た王爺だという。
    初め人々は信じなかったが、ある日彼らが「令旗」を振ったところ、いきなり稲光がして大雨が降ったので、人々は信じるようになった。この廟の王爺の発祥地は、南安の渓尾蓮塘。
    その後、晋江の古坑「古霊殿」、及び「后蔡」を経由してこの村へやってきたという。王爺はとても凶暴な神。普通人々はあまり近寄りたがらない。例えば、雨が降ったときに廟で一人で雨宿りするのは気持ちが悪い。鬼や妖怪が出るから。廟のお賽銭を盗もうとすれば、足が動かなくなってしまう。
  7. 送王船儀礼:解放以前は、瘟疫が流行ったときにやった。
  8. 巡境(有無及び範囲):無し。8月13日が生日の祭典。かつては演劇の奉納を3日やった。現在は1ヶ月くらい続く。
  9. 分霊:新竹市大庄里明安宮(ただし進香には来たが、分霊かどうかははっきりしない)。
  10. 管理組織:不明。

廟の外観 19970101

王船 19970101

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